8月, 2010の記事一覧

ソーシャルグラフ(Social Graph)にまつわるアレコレ

2010.08.19 木, Posted in Web   

Some rights reserved by Rafiq Phillips
今に至ってソーシャルグラフ(Social Graph)という感覚を得ないわけではないが、以前にUXBC TokyoのDesigning Social Interfaceの読書会に参加した際に感じた『デザインしようとする対象への理解を深める』という目的のもと、簡単にまとめてみたい。
まず前置きとして、ソーシャルグラフ(Social Graph)の言葉の成り立ちから調べてみた。ソーシャルグラフ(Social Graph)に関する文献としては、Brad FitzpatrickのThoughts on the Social Graphというマニフェストが圧倒的に有名なので、てっきり彼の言葉だと思っていたが、どうやらwikipediaに寄れば、Facebookの創立者であるMark Zuckerbergの造語であるとのこと。
その意味は文字通り『ソーシャルネットワークにおける関連性をグラフ化』したもの。Thoughts on the Social Graphの言葉を借りて、もう少し具体的に説明すると、そのグラフは、ノード(接点)とエッジ(枝)で構成されており、ノードはネットワーク上の個人、エッジは個人間のつながりを示している。
ここで幾つか思考するための材料をThoughts on the Social Graphから抜き出してみよう。
ソーシャルグラフに含むものと含まないもの
ただし個人間の関連性のみに限定するというのはあくまで純粋な意味においてであり、広義にはエッジの論理関係(家族とか友人とか恋人とか)やノードのメタ情報(年齢とか出身地とか所属組織とか)を含むというのが現時点での通念と言えそう。ただしメタ情報という一言にいっても、個人が入力したプロフィールから読み取れる明示的な情報からログイン履歴やアクセスログなどの暗黙的な情報までほぼ無限に存在することを考えれば、どこまでをグラフに含むかは、用途によって 妥当に判断されるべきといえよう。
Brad Fitzpatrickが言うような非営利の標準化団体のようなものができれば、ダブリンコアのような規格も提唱されるかもしれない。(非現実だと思うけど)
誰がどのように管理すべきか?
Brad Fitzpatrickは、ソーシャルグラフ(Social Graph)は一企業によって中央集権的に管理されるべきではないと述べているがそれには賛成できる。もちろん、ネットワークの人間関係は、あくまでユーザーが築き上げた資産だが、サービスの主体であるネットワークが関係構築を促進したという側面もある、日記や写真のようにユーザーの著作物と言い切るのは難しい。
今のところFacebookにもTwitterにもソーシャルグラフを独占的に利用しようという動きは見られない。むしろFacebookのOpen Graph構想や各サービスで積極的に相互利用されるなど、現状を見る限り、Brad Fitzpatrickの懸念とは逆方向に時代は進んでいるように見える。
ユーザーにとっては?
サービスプロバイダーが描くようなソーシャルグラフを共有するという思想がユーザーに理解されているか?と言えばそうでもないだろう。相手のレスポンスを気にかけることなく一方的にフォローできるTwitterとお互いの同意が必要なFacebookではエッジの強度が全く異なる。サービス間での使い分けは、それぞれのサービスでの一人当たりの接続ノード数を見れば明らかだろう。これらを考慮せずソーシャルグラフの相互乗り入れを提供しても、相乗効果があるとは思えない。(少なくとも、ノード間の距離が近いFacebookにはあまりメリットがないのでは?)
実際、どう使っている?
いずれかのソーシャルネットワークを使っているユーザーなら、そのサービスのどこかの場所でTwitterやOpen IDのログインフィールドを見かけることがあるだろう。恐らく一度くらいは気軽にログインしてみたことがあるはず(少なくとも自分はあるが)、自分の場合は、その時の体験はあまりポジティヴなものとは言えない、自分のフォロワーが一覧で表示されコンタクを促され、最悪のケースは勝手にTwitterにポストまでされた。
自分自身では利用したことがなくても、Twitterの認証を利用したスパムを受けとった経験はきっとあるに違いない、現実の世界ではしっかりもののあの人までも(誰?)が簡単にフィッシングに引っ掛かってしまうところを見ると、ユーザーがあまりに無防備なのは容易に推測できる。
長くなってきたので、次回に続く。。

Related Entries

関連する投稿はありません。

カーゴ・カルトとパターン

2010.08.28 土, Posted in Web   

かつて積荷が運ばれて来たときの状況(太平洋戦争時のアメリカ軍の装備や振る舞いなど)を再現して、滑走路もどき、空港もどき、事務所もどきなどの模倣施設を作り、ココナッツと藁で作ったラジオもどきなどの模倣品を作り、さらには島民自身が軍人、船乗り、航空兵の行動を模倣した。またライフルに見立てた小枝を持ち、階級章の絵や「USA」という文字列などをボディペインティングし、「訓練」や「行進」をこなした。木を削って「ヘッドホン」を作り、それを着けて「管制塔」に座り、「滑走路」に立ち「着陸信号」を振り、「滑走路」をたいまつで照らし狼煙を上げることもした。
Wikipedia『カーゴカルト』より引用
Wikipediaにもある通りカーゴ・カルト(積荷信仰)とは西洋文明の外観を模倣することで、自分たちの元にその恩恵がもたらせれると信じた、太平洋戦争中にオセアニアの群島部で興った呪物信仰の一種。簡単にいえば、本質を考えず表面だけを模倣すると言ったところ。
カーゴカルトはウェブの世界で氾濫している。例えば、Yahoo Japan!のトップページとgooのトップページを比べればその相似は明らかだし、最近mixiに導入されたボイスやイイネ!などを見ても世界で信仰されているあれやこれを模倣したものに間違いない。本家本元のLikeには評価するという行為をコンテンツとしてしまうという以上に、新しい価値基準の仕組みづくりが見てとれるが、果たしてそういう背景も考慮されているのだろうか?
一方、パターンという言葉がある。源流は建築家だったクリストファー・アレグザンダーの「パターンランゲージ」と言う考え方でソフトウェアの世界で持ち込まれ、ウェブのインターフェイスの世界でも耳にするようになってきた。僕はざっくりと、複数の最小限のパターンを組み合わせることで、どのような作り手であっても高い品質を維持するという考えかた、と捉えている。
サービスやコンテンツの模倣は、パターンでもカーゴカルトでもなく単なるパクリでしかないが(タイムマシーン経営のようにマーケットが違えば許容されるのかもしれない)、インターフェイスや機能などの創造性というよりは汎用性が求められる領域に関しては、模倣も標準化の一部として容認されている、というか積極的に推進されている側面もある。もちろん自身のサービス、そのターゲットへの洞察があることが前提になるだろうが。
結局のところ何が言いたかったのか解らなくなってきたが、要は自分たちサイトの設計者への戒めというところだろうか。プラクティスからパターンへ、パターンからプリンシパルにという言葉を思い出して、そんなことを考えてみた。

Related Entries

関連する投稿はありません。